白峯神社以前から行きたかった白峯神社です。私は怨霊伝説で有名な崇徳天皇が祀られているということで行きたかったのですが、行ってみると意外にもスポーツの神社ということで有名なようでした。 まず、目に飛び込んできたのが蹴鞠の碑です。 この写真のまん丸いところがくるくる回るのです。 何回も回すと球技が上手になるそうです。 友達はテニスをしているので、一生懸命まわしていました。 明治の初めに天皇が京都から、東京へ移られたときにたくさんの公家さんもお供されたそうです。 その中で、飛鳥井さんというかたが崇徳天皇の神社を作るときにご自分のお屋敷を提供されたのだそうです。 その飛鳥井さんが蹴鞠を教えていた偉い方だったので、ここが蹴鞠の神社となったのだそうです。 蹴鞠は三回蹴って相手に渡します。 もし、相手が失敗したらそれは相手が悪いのではなくて鞠を上手にトス出来なかった本人が下手なのだそうです。 それは人生でも同じですね。 失敗したら、相手が悪いのではなくて実は自分がちゃんとお助け出来ていなかったのかも知れませんね。 だから、ここが勝利の神社ではなくて、スポーツの神社たる由縁なのだそうです。 だから、「サッカー(野球・テニス…。)が上手になりますように。」とお願いするのではなくて、「練習の成果を発る揮できますように。」と御祈りするのが正しい参拝の仕方なのだそうです。 なるほど、納得ですね。 鈴まで鞠ですね。 蹴鞠を行う場所です。 鞠は鹿革で出来ています。 軽くて、紙風船みたいです。 ちょっと、触らせて頂きました。 さて、私が気になっていた崇徳天皇についてです。 崇徳天皇ってご存知ですか。 日本の怨霊の中でも最も恐ろしいのが魔王ともいわれている、崇徳天皇かも知れませんね。 怨霊伝説を簡単に説明すると以下の通りです。 崇徳天皇の父は鳥羽上皇、母は藤原璋子。 父ともされる曾祖父の白河法皇に寵愛され、わずか4歳にして鳥羽天皇を退位させ、1107年に第75代天皇となる。 鳥羽・後白河派と崇徳派の争いは、白河法皇の後をついで絶大な権力を振るった鳥羽法皇の死後武力衝突に発展し、保元の乱が勃発する(1156年) 戦いに敗れた崇徳上皇は讃岐の国に流され、後白河朝廷に対する恨みの日々を過ごす。 崇徳天皇は、1164年に帰京も叶わぬまま死去し白峯に葬られる。 鹿ヶ谷事件(1177年)で世情不安なころ、崇徳上皇の怨霊について囁かれ始める。ここではじめて崇徳院の院号が贈られ、怨霊慰撫がなされる。 だが、その後も京の大火、妖星の出現、源平の騒乱、平清盛の怪死など、上皇の呪詛によるとの噂は絶えず、源頼朝や後白河法皇も怨霊慰撫を繰り返す。 魔王となった上皇は、とどまるところを知らず、全国の天狗を眷属とし、様々な戦乱、祟りを引き起こす。 一例としては、太平記で愛宕山で淳仁天皇や後鳥羽上皇らと天下を乱す相談をしているところが語られている。 その姿は、背中に大きな金の翼が生えたトビとされ、まさしく天狗の王である。 本当に崇徳天皇は怨霊となって呪って出たのでしょうか。 まさか、そんははずはないですね。 でも、当時の人がそう信じていたという事実は確かにあったことです。 さて、怨霊と言うのはどういったものなのでしょうか。 一般に言われているのは、無実の罪で死んだ人がきちんと葬られて鎮魂されていない時に怨霊ととして祟ると言うものです。 つまり、本当は無実の罪で殺した人の罪の意識が生み出したものなのかもしれませんね。 祟られるというのは、その人がそれだけ悪いことをしたということ。 自分が悪くなければ、呪われるなんて思わないですからね。 でも、ちゃんと鎮魂して神様として祀ると、祟りはおさまり、守ってもらえると考える日本人はすごいですね。 崇徳天皇さま、皆様をお守りくださいね。 次は、三葉の松です。 この松の葉っぱは二本ではなくて、三本なのです。 一本は自分で、もう一本は相手(妻か夫)で、その真ん中が神様だと言うのです。 神様を真ん中に夫婦仲良しというのは素敵ですね。 今日は、たまたま神社の方から、たくさんのお話を聞くことが出来ました。 ここではちょっと、書ききれませんが、道鏡や孝謙天皇のお話もしてくださいました。 和気清麻呂とひろ虫さんを祀った神社も御所の近くにあるそうです。 いつかまた行ってみたいです。 さて、このあとは貴船に向かいました。 この日は旧の七夕だったので、貴船は短冊でいっぱいでした そのお話は次回です。 |